約 2,253,196 件
https://w.atwiki.jp/a_boy/pages/12.html
a-boy掲示板
https://w.atwiki.jp/cwcwiki/pages/50.html
ダービースタリオンP ダービースタリオンPID+ゲーム名資金 通算年数 ステータス表示 ステータス(1頭目) 馬名(1頭目) Book Full種牡馬全開 海外種牡馬全開 ID+ゲーム名 _S ULJS-00045 _G dabisutarion p 資金 _C money 9,999,999,900 _L 0x20322F08 0x05F5E0FF _L 0x2035FA90 0x05F5E0FF ※百円単位 通算年数 _C years _L 0x20322F0C 0xyyyyyyyy _L 0x2035FA94 0xyyyyyyyy yyyyyyyy=1h~7FFFFFFFh ステータス表示 _C0 status display _L 0x2016a3d0 0x24C2000B ※表示内容(2桁表示、3桁目は表示されない) 右芝 現在SP 現在ST 現在根性 現在気性 左芝 最大根性 最大気性 ダート適性 健康 右ダ 人気 成長 最大SP 最大ST 左ダ 回復 ステータス(1頭目) 2頭目以降は+58h _C1 1st status _L 0x00325912 0x000000xx 年齢 _L 0x00325913 0x000000xx 毛色/性別([毛色/性別]参照) _L 0x0032591B 0x000000xx 現在スピード _L 0x0032591C 0x000000xx 現在スタミナ _L 0x0032591D 0x000000xx 現在根性 _L 0x0032591E 0x000000xx 現在気性 _L 0x0032591F 0x000000xx 人気(0~100|00h~64h) _L 0x00325920 0x000000xx 成長型(0~45|00h~2Dh) _L 0x00325921 0x000000xx 最大スピード(0~128|00h~80h) _L 0x00325922 0x000000xx 最大スタミナ(0~128|00h~80h) _L 0x00325923 0x000000xx 最大根性(0~100|00h~64h) _L 0x00325924 0x000000xx 最大気性(0~100|00h~64h) _L 0x00325925 0x000000xx ダート適正(0~5|00h~05h) _L 0x00325926 0x000000xx 健康(0~7|00h~07h) _L 0x00325927 0x000000xx 疲労度回復(0~30|00h~1Eh) _L 0x20325944 0xxxxxxxxx 総賞金(単位:万円) _L 0x20325948 0xxxxxxxxx 本賞金(単位:十万円) _L 0x0032594D 0x000000xx 馬体重 _L 0x00325955 0x000000xx 疲労度(00hで疲労なし) _L 0x00325958 0x000000xx 調子([調子]参照) ※馬体重は00hでベスト体重、1hごとに2kg増減 01h:ベスト体重+2kg FFh:ベスト体重-2kg +[毛色/性別] [毛色/性別] 毛色 性別 毛色 性別 毛色 性別 毛色 性別 00 栗 牡 01 栗 牝 02 栗 騸 03 栗 (無表示) 04 鹿 牡 05 鹿 牝 06 鹿 騸 07 鹿 (無表示) 08 黒鹿 牡 09 黒鹿 牝 0A 黒鹿 騸 0B 黒鹿 (無表示) 0C 栃栗 牡 0D 栃栗 牝 0E 栃栗 騸 0F 栃栗 (無表示) 10 青鹿 牡 11 青鹿 牝 12 青鹿 騸 13 青鹿 (無表示) 14 芦 牡 15 芦 牝 16 芦 騸 17 芦 (無表示) 18 青 牡 19 青 牝 1A 青 騸 1B 青 (無表示) 1C 白 牡 1D 白 牝 1E 白 騸 1F 白 (無表示) ※+20h:市場取引馬 ※+40h:父内国産馬 ※+60h:父内国産馬&市場取引馬 +[調子] [調子] 00 カイ食いが落ちているようで あまり体調が良くありません 01 少しずつ調子は上がってきましたが 本調子には まだまだですね 02 だいぶ疲れも取れたようです カイ食いも良くなってきました 03 順調にきています もうひと追いすればカンペキです 04 いい状態に仕上がりました この分ならかなりやれそうです 05 相変わらず元気です 調子はまずまずキープしてます 06 調子は特に良くもないですが 悪くもありません 07 このところ少しバテ気味で ちょっと調子が落ちてる感じですね 08 カイ食いが落ちているようで あまり体調が良くありません 09 少しずつ調子は上がってきましたが 本調子には まだまだですね 0A だいぶ疲れも取れたようです カイ食いも良くなってきました 0B 順調にきています もうひと追いすればカンペキです 0C いい状態に仕上がりました この分ならかなりやれそうです 0D 相変わらず元気です 調子はまずまずキープしてます 0E 調子は特に良くもないですが 悪くもありません 0F このところ少しバテ気味で ちょっと調子が落ちてる感じですね 馬名(1頭目) 2頭目以降は+0Eh _C1 name _L 0x0032551C 0x000000xx 1文字目 _L 0x0032551D 0x000000xx 2文字目 _L 0x0032551E 0x000000xx 3文字目 _L 0x0032551F 0x000000xx 4文字目 _L 0x00325520 0x000000xx 5文字目 _L 0x00325521 0x000000xx 6文字目 _L 0x00325522 0x000000xx 7文字目 _L 0x00325523 0x000000xx 8文字目 _L 0x00325524 0x000000xx 9文字目 Book Full種牡馬全開 _C0 Book Full ALL _L 0x80322FDE 0x001C0008 _L 0x00000004 0x00000000 _C0 Book Full _L 0x0032zzzz 0x00000004 zzzz=[Book Full種牡馬]参照 +[Book Full種牡馬] [Book Full種牡馬] 2FDE サンデーサイレンス 2FE6 ブライアンズタイム 2FEE トニービン 2FF6 エンドスウィープ 2FFE フレンチデピュティ 3006 アフリート 300E ダンシングブレーヴ 3016 フォーティナイナー 301E アグネスタキオン 3026 タイキシャトル 302E ダンスインザダーク 3036 コマンダーインチーフ 303E サクラバクシンオー 3046 フジキセキ 304E スペシャルウィーク 3056 ワイルドラッシュ 305E クロフネ 3066 ボストンハーバー 306E ジェイドロバリー 3076 ニホンピロウイナー 307E ミルジョージ 3086 モガミ 308E リアルシャダイ 3096 アンバーシャダイ 309E ウォーニング 30A6 エルコンドルパサー 30AE タマモクロス 30B6 アドマイヤベガ 海外種牡馬全開 _C0 Overseas stallion ALL _L 0x8032348E 0x00470008 _L 0x00000005 0x00000000 _C0 Overseas stallion _L 0x00323zzz 0x00000005 zzz=[海外種牡馬]参照 +[海外種牡馬] [海外種牡馬] 48E A.P.Indy 496 Afternoon Deelites 49E Bering 4A6 Boundary 4AE Broad Brush 4B6 Caerleon 4BE Capote 4C6 Carson City 4CE Cherokee Run 4D6 Conquistador Cielo 4DE Cozzene 4E6 Crafty Prospector 4EE Cryptoclearance 4F6 Danehill 4FE Danzig 506 Darshaan 50E Diesis 516 Fantastic Light 51E Fusaichi Pegasus 526 Giant s Causeway 52E Gilded Time 536 Go for Gin 53E Gone West 546 Grand Slam 54E Green Desert 556 Gulch 55E Hennessy 566 Highest Honor 56E Holy Bull 576 Honour and Glory 57E Indian Ridge 586 Kingmambo 58E Louis Quatorze 596 Machiavellian 59E Maria s Mon 5A6 Meadowlake 5AE Mt.Livermore 5B6 Nureyev 5BE Old Trieste 5C6 Our Emblem 5CE Peintre Celebre 5D6 Phone Trick 5DE Pine Bluff 5E6 Pleasant Tap 5EE Rahy 5F6 Rainbow Quest 5FE Red Ransom 606 Royal Academy 60E Sadler s Wells 616 Salt Lake 61E Seeking the Gold 626 Selkirk 62E Silver Deputy 636 Silver Hawk 63E Singspiel 646 Southern Halo 64E Spend a Buck 656 Spinning World 65E Storm Cat 666 Stormin Fever 66E Sultry Song 676 Swain 67E Theatrical 686 Thunder Gulch 68E Unbridled 696 Unbridled s Song 69E Vettori 6A6 Victory Gallop 6AE Wild Again 6B6 Woodman 6BE Zafonic
https://w.atwiki.jp/kakis/pages/10613.html
上位標目 第九期新生アルカ概説 比較 指示形容詞_na14 指示形容詞2008/10/01 (水) 11 16 41のコピー 三人称のtuとleは名詞の前にきて、「この」「あの」の意味を指す形容詞となる。 tu miik(このリンゴ) le miik(あのリンゴ) また、名詞が有生の場合、指示形容詞はlu, la を使う。 lu fian(その女の子) la fian(あの女の子) 新生への改訂に際し、指示にtu, leだけでなくlu, laも使うのは面倒という批判があった。 指示はtuとleだけでよいではないかという批判である。 例えば日本語の場合、「このリンゴ」とも「この少女」とも言う。連体詞「この」には有生と無生の区別がない。 だが、アルカの場合は、有生にtuをつけるのほうがむしろ違和感がある。 la et ne? in, le fian(あの子誰?ほら、あの女の子) ――のように、指示形容詞のときだけla fianでなくle fianにすることになるが、このときla et ne?ではleでなくlaを使っているので、ちぐはぐになる。 ●指示形容詞が前置される理由。 指示形容詞と名詞は結びつきが強い。 だがfian sor laの場合、fian la sorとはできない。 laは「背の高い少女」にかかるから、修飾の外側に出す必要がある。つまりsorより外側になくてはならない。 fisn sor tinka laの場合、fianとlaが離れすぎ、fianとlaの結びつきが弱くなる。 だが意味的にlaを内側に入れることはできない。 そこで指示形容詞については前置すれば、修飾がいくら長くなっても問題がなくなる。 la fian sor tinkaのように。 上位標目 第九期新生アルカ概説 比較 指示形容詞_na14
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/149.html
オランダ船、陸奥南部に漂着 1643年(H1643a) 1643年、オランダ人、マルテン・ゲルリツェン・フリース、第 2 回太平洋探検隊の司令官としてカストリクム Castrikum 号に乗船,僚船ブレスケン号を伴い日本の東岸を北航して,サハリン (樺太) 東岸のテルペニエ (知床) 岬の北,北緯 48°54"に到達した。この間,択捉 (えとろふ) 島とウルップ (得撫) 島を発見して,それぞれをスターテン・ラントとコンパニース・ラントと命名し,サハリンと千島のアイヌとも接触 寛永20年6月13日(1643/7/28)、南部山田港(岩手県下閉伊郡山田町)に入る。乗組員のタタール人が「モスコヴィア」国出身のものであると告げる。 1643/8/16、北海道の厚岸(あつけし) で船を修理した(~9/1)が,そのさい松前藩の蝦夷交易船上乗役小山五郎兵衛の船体調べを受けている。(ここまで、木崎良平「漂流民とロシア」) 「外交志稿」では以下のとおり 寛永20(1643)年5月、オランダ船1隻10人、陸奥南部に漂着す。砲術医術に通ずる者5人あり。之を江戸に送り、其術を伝習し後、其国に還らしむ。北海烏舶記に曰く、1643年オランダ商舶咬[口留]吧より出帆し悪風に遇い室韋(しい)東北部カムチャツカに漂泊し、因って野作(えぞ)余東北の諸島を歴て7月曷桀什(かつけし)海(案ずるに即ち今釧路州厚岸郡)に碇泊す。松前藩吏、状を具して其藩に報ず。蘭船南に向て去り、松前の東洋を経て南部山田浦に抵り小船に駕し岸に上り水を取る。南部藩人を遣わし之を捕え江戸に送ると即ち此事(寛永20年5月オランダ船)なり 参考文献 木崎良平, 1991. 漂流民とロシア. 中央公論社. 外務省記録局編, 1884. 外交志稿. 外務省.
https://w.atwiki.jp/kakis/pages/10751.html
上位標目 第十四期新生アルカ概説 比較 形副詞_na9 形副詞(2009/02/03 (火) 09 20 43)より転記 形副詞は形容詞と副詞の混成である。 両者とも語形が同じなので、こう呼ばれる。 形容詞 形容詞は名詞の後ろに来る。 ket lisで「小さい猫」。 副詞 副詞は「se+形容詞」で作る。seは格詞のひとつ。 「小さい」がlisなら、「小さく」はse lis。 副詞は通常「主語+動詞+目的語」の後に置くが、そこでないといけないということはない。 an badat elen se vien. 私は机を強く叩いた。 se vienで「強く」。 vienだけだと「強い」。 なお、seは母音で始まる単語の前ではs'になる。 an vast tas s'aluut(絶対試験に合格する) 純副詞 上ではs'aluutと述べたが、実はaluutはseがなくとも副詞になる。 aluutは「必ず」という確率の副詞だが、意味的に副詞であることは明らかなので、わざわざseを付けない。 こういう副詞専門の単語を純副詞といい、確率のほかにkalma(しばしば)のような頻度を表すものも純副詞になる。 純副詞は動詞の直前か直後に置かれる。aluutやkalmaは直前である。 なお、程度を表すtinka(非常に)などは意味的には副詞でしかありえないものの、純副詞にはならない。 純副詞かどうかは辞書を確認されたし。 法副詞 英語の助動詞にあたるもので、可能や希望などを表す。 可能はsen、希望はlaxといい、axt senで「書ける」、axt laxで「書きたい」を意味する。 senやlaxは動詞の直後に来てseを伴わないので、純副詞である。 言語学的には「法」を表すため、純副詞の中でも特に法副詞と呼んでいる。 よく使う法副詞 lax ~したい 希望 van ~しよう 意思 sen ~できる 可能 vil ~できない 不可能 das ~したらどうですか 提案 fal ~すべき 義務 flen ~してもよい 許可 xiit ~しましょう 勧誘 同じ位置に来ても、未来時制のsilや受身を作るyuは「法」ではないので、法副詞には含めない。 余禄 前置形副詞、命令も参照のこと。 上位標目 第十四期新生アルカ概説 比較 形副詞_na9
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/9322.html
【登録タグ A Lammmu 曲 鏡音リン】 作詞:Lammmu 作曲:Lammmu 編曲:Lammmu 唄:鏡音リン 曲紹介 「時間の流れはあまりに残酷だと思います。麺は伸びるし菓子は湿気るし。タイトルはアイルランド語らしいけど正直自信ないよ!」(作者コメントより) つらい別れがあることを知りつつもぼくらは出会いをくりかえす(マイリスコメントより) 歌詞 穏やかな空、吹き渡る風 けれども 日が沈む頃、僕の心に 嵐がやってくる 優しい時間、束の間の夢 だけれど それを求めて僕らはまた 悲しみを繰り返す 終わりを告げる鐘に絆は断たれ 約束された 永遠すらも 変えてゆく 人の手で生まれ来る永遠は 儚いもの 僕らの手だけじゃ どうすることも出来やしないのに 絶たれた糸はもう戻せない? それでも 術を求めて 僕は世界を 駆け巡る 愚かな僕らは 同じ後悔を 止め処なく 繰り返す けれど それは決して 無駄ではないから ただ、今を生きよ 終わりを忘れ 友のために、 少しでも長く 君のとなりで 泣き笑うために コメント タイトル Amhran_Taistealaithe です(変更お願いします) -- 名無しさん (2010-05-19 14 07 46) ↑間違えました Amhran_na_Taistealaitheです? -- 名無しさん (2010-05-19 14 11 08) ページ名変更しました -- 名無しさん (2010-05-23 17 46 59) この曲大好きです\(^o^)/ -- 名無しさん (2010-12-23 12 15 42) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kakis/pages/10746.html
上位標目 第十四期新生アルカ概説 比較 定義動詞_na14 定義動詞(2008/05/26 (月) 09 58 44)より転記 「意味する」「~である」「~はいくらである」など、行為でも状態でもなく、「主語は目的語である」と定義するための動詞がある。 アルカでは順にeks, et, gartである。 ほかにmols(時間はいくらである)などもこの類である。 eksは行為動詞としては「意味するようになる」という意味を持つ。 状態動詞として「意味するようになっている」つまり「意味する」に等しい。 従って「男でないは女を意味する」という文は本来的にはen vik ekses minとなる。 しかしeksを行為動詞の意味で使うことはまずないため、siinaなどと同じく例外動詞とする。 つまり、無標が状態動詞になる。 ゆえに、en vik eks minでよい。 このことはほかの動詞にも言える。 だが、言えないのがひとつある。繋辞である。 繋辞は「~になる」が行為動詞としての意味であり、「~になっている」が状態動詞としての意味である。 しかし、「~になる」はbeではなくbecomeに当たるものだ。アルカで言えばetでなくemに当たる。 そこで気付いたのだが、esというのはemの状態動詞なのだろう。 今まではetが行為動詞で、その影響相がetesだが、繋辞の場合は特別にetを略してesにしていた。 つまりesの原形はetesだ。esはあくまでetの影響相だ。 だが、行為動詞の意味を考えると、esの原形はem(~になる)のはずだ。 では、etはどこに行くか。 これが純粋な定義動詞として残ればいい。状態ではなく性質を現す繋辞だ。 例えば「これは一時的に濡れている」という状態を表すなら、tu es eves。 「私は女だ」という性質を指す場合は、恒常的な定義なのでnon et min。 性質と状態を言い分けられるのは、従って繋辞のみになる。 意味するなどの動詞では、状態動詞を以って定義動詞とするため、性質と状態の差がない。 恐らくeksやmolsなどの動詞に性質か状態かの区別はいらない。 だが、繋辞には必要だ。川が枯渇していて恒常的に乾いているのと、日照りで一時的に乾いているのでは意味が違う。 一方、あるものの性質によって意味していることと、あるものが状態として意味しているということの区別は、あまり日常的に必要とは思えないからだ。 上位標目 第十四期新生アルカ概説 比較 定義動詞_na14
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/145.html
大屋甚吉、鬱陵島に漂着 1617年(H1617a) 元和3(1617)年、大屋甚吉(大谷甚吉とも)、鬱陵島に漂着。一説にはもっと早い時期の可能性もある。 大屋家は但馬大屋谷に居していた和田九右衛門尉良清が始祖でその孫玄蕃尉勝真が現在の鳥取県会見郡の尾高城主杉原盛重に仕え、姓を大谷に変えたという。彼は家老の上席にまで身を置くが途中で武士を捨て隠士となり祖先の墓所である大屋谷に帰り死去している。その玄蕃の甥が甚吉で町人として米子の灘町で廻船業を開始した。大屋は屋号だという。 元和4(1618)年5月16日(一説には1625年)、米子町人の大屋甚吉と村川市兵衛が江戸幕府から「竹島渡海免許」を与えられ、アワビやワカメを採るために、毎年、交代で船を送るようになる。当時、日本では鬱陵島を「竹島」あるいは「磯竹島」と読んでいた。 免許を得るきっかけは、越後国(新潟県)から伯耆国(鳥取県)米子へ船で向っていた大谷甚吉が、遭難して鬱陵島へ漂着したことにあった。その島は、「人家なくして山河産物有り、喬木、大竹繁茂し、禽獣、魚、貝、其品を尽す」(「竹島渡海禁止並渡海沿革」) 帰国した大谷甚吉は、同じく米子町人の村川市兵衛とともに渡海の許可を申し出た。5月16日、幕府の許可は鳥取藩主池田光政へ伝えられた。 渡海事業が続けられる中、鬱陵島への途中寄港地として松島(現:竹島)が新たに発見され利用されるようになり、1600年代中ごろまでには、大谷・村川両家は「松島渡海免許」を授かったと伝えられる。 1696年には鬱陵島渡海を禁じられる。甚吉本人も何回か鬱陵島に渡り、鬱陵島で没したといわれるが時期は不詳。 参考文献 杉原隆, 2006. 日本・韓国間の漂流の歴史と竹島問題. 島根県. 別冊宝島編集部, 2005. ニッポン人なら読んでおきたい竹島・尖閣諸島の本. 宝島社.
https://w.atwiki.jp/ws_wiki/pages/5899.html
autolink() VA/WPR-P05 カード名:“炎のグラフィッカー”Na-Ga カテゴリ:キャラクター 色:黄 レベル:2 コスト:1 トリガー:1 パワー:9500 ソウル:1 特徴:《ビジュアルアーツ》?・《影》? 【自】バトル中のこのカードがリバースした時、このカードをクロック置場に置く。 おぉつ!ペンタブさえあれば1人力じゃわいっ! レアリティ:PR illust.Na-Ga 「ビジュアルアーツ」参戦告知ページより。 2/1キャラでもトップクラスのパワーを持つキャラ。PRの性能とは思えない。 2/1で10000を誇る伝説の英雄アバロンや吹き荒ぶ風のゲーニッツが存在するが、面倒な登場条件や相手へのパンプがないので、500劣っていてもこちらの方が扱いやすい。 また、“金髮ツンデレ好き”樋上いたるのCXシナジーでこき使…もといリアニメイトが可能なので手札やストックにやさしいカードである。 しかしながらデメリットはクロックバウンスとレベル2以降ではいささか以上に厳しいもの。 自身が飛ぶのでアンコールが出来ないのも難点だが、天真爛漫 ランカや傷つきながら戦うさやかの様にCXが落ちる心配がないのが救いか。 上記2枚と違い、此花 ルチア等のクロック送りで1枚しか増えないのもささやかな利点と言えるかもしれない。 ・関連カード カード名 レベル/コスト スペック 色 備考 “金髮ツンデレ好き”樋上いたる 2/1 4000/1 黄 リアニメイト元
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/231.html
1794年 陸奥若宮丸アリューシャン諸島に漂着 1727年、吉郎次、牡鹿郡小竹浜(石巻市小竹浜)で生まれる。 1744年、津太夫、陸奥国宮城郡浦戸村寒風沢(宮城県塩竈市浦戸寒風沢)で生まれる。姓は土井、善五郎(左五郎)倅。宗旨禅宗。菩提寺寒風沢松林寺。 宝暦11(1761)年、儀兵衛、陸奥国桃生郡深谷室浜(宮城県桃生郡鳴瀬町室浜)で生まれる。姓は奥田、源三郎倅。儀平とも。宗旨禅宗。 1762年、左平(太兵衛とも)、陸奥国宮城郡浦戸村寒風沢出身。長九郎倅。宗旨禅宗。菩提寺寒風沢松林寺。 1764/04/08、ニコライ・ベトロヴィチ・レザノフ、ペテルブルグの貧しい士族の家庭に生まれる。 1770、太十郎(太十、太平とも)、陸奥国桃生郡深谷室浜で生まれる。姓は奥田、太十郎倅。宗旨禅宗。 1770、イヴァン・フョドロヴィチ・クルーゼンシュテルン|Ivan Fyodorovich Kruzenshtern、生年。 1778、レザノフ、砲兵学校を卒業、近衛連隊に配属。 1782、レザノフ、退役、地方裁判所の陪審判事をする。 1787、レザノフ、ペテルブルグ裁判所で勤務。その後、海軍省次官チェルヌィシェフ伯爵の秘書官を勤める。 1791、レザノフ、デルジャーヴィンの後ろ盾で官房長に就任。 寛政5年11月27日(1793/12/29)、若宮丸、石巻港を出帆。陸奥国牡鹿郡石巻(宮城県石巻市)の米沢屋平之丞持船、800石積24反帆。積荷は仙台藩御用米1332俵と、御用木雑小間木400本。目的地は江戸。乗組員16名。東名浦(宮城県桃生郡鳴瀬町東名)に寄港して風待ち。 津太夫、若宮丸水主。陸奥国宮城郡浦戸村寒風沢(宮城県塩竈市浦戸寒風沢)出身。出帆時49歳。姓は土井、善五郎(左五郎)倅。宗旨禅宗。菩提寺寒風沢松林寺。 儀兵衛、若宮丸水主。儀平とも。陸奥国桃生郡深谷室浜(宮城県桃生郡鳴瀬町室浜)出身。32歳。姓は奥田。源三郎倅。宗旨禅宗。 左平、若宮丸水主。太兵衛とも。寒風沢出身。出帆時31歳。長九郎倅。宗旨禅宗、菩提寺寒風沢松林寺。 太十郎、若宮丸水主。太十、太平とも。出帆時23歳。姓は奥田、太十郎倅。宗旨禅宗。 平兵衛、若宮丸船頭。石巻出身。船主の米沢屋平之丞の子ともいう。 市五郎、若宮丸水主。石巻出身。 吉郎次、若宮丸船親父。出帆時66歳。 左太夫、若宮丸楫取。佐太夫とも。寒風沢出身。姓は土井、平右衛門の父。 清蔵、若宮丸水主。石巻出身。 銀三郎、若宮丸水主。石巻出身。長九郎倅。 善六、若宮丸水主。善六郎とも。石巻出身。 辰蔵、若宮丸水主。宅蔵とも。宮城郡石浜(塩竈市浦戸石浜)出身。 民之助、若宮丸水主。寒風沢出身。姓は土井、栄吉倅。 八三郎、若宮丸水主。初三郎とも。石巻出身。 巳之助、若宮丸炊。石巻出身。 茂次郎、若宮丸水主。茂次平、茂平次、文字平、茂治郎とも。小竹浜出身。 寛政5年11月29日(1793/12/31)、若宮丸、東名浦を出帆。 寛政5年11月30日(1794/01/01)、広野(福島県双葉郡広野町)沖に仮泊。 寛政5年12月1日(1794/01/02)、乗組員16人を乗せて、仙台沖で漂流する。 寛政5年12月2日(1794/01/03)、この日の夜から、激しい北風あるいは南西の風により楫を折られ太平洋を北東に流された。 1794年、レザノフ、ロシア領アメリカ住民をロシア正教に改宗させる目的でオホーツクに派遣されたロシア正教布教団を送り届ける途中、イルクーツクに滞在、シェリホフと出会う。 寛政6年1月6, 7日(1794/02/05, 06)、若宮丸、再び海が荒れ残った米の半分を捨てる。 寛政6年1月11日(1794/02/10)、風波がトモを打ち破り、上棚もさけるという惨状を呈したので、米200俵を残し残りの積荷を捨てる。 寛政6年3月1日(1794/03/31)、表の方に下げた綱2本と、イカリ2頭、5尺板などが波にさらわれた。 寛政6年3月3日(1794/04/02)、カキがらのついた丸木が1本流れよったので、陸が近づいたと喜ぶ。 寛政6年5月9日1794/06/06)、北東のほうに雪の積もった高山を見つける。 寛政6年5月10日(1794/06/07)、アリューシャン列島アンドレヤノフスキー諸島の一島に漂着(16名)。数日後、人の住む島を求めて小船で北に向かう。 寛政6年6月4日(1794/06/30)、人がいるところを見つけ、上陸。 寛政6年6月5日(1794/07/01)、小船で住民のいる島に到達し住民に助けられる。 寛政6年6月8日(1794/07/04)、平兵衛、アリューシャン列島アンドレヤノフスキー諸島の一島で死亡。 寛政6年6月12日(1794/07/08)、ロシア人数名が津太夫らのいる島に来島。 寛政6年6月13日(1794/07/09)、ロシア人とウナラスカ島に渡る(15名)。ウナラスカ島はイルクーツクに本社を持つシェレホフ・ゴリコフ商会の根拠地の島。この島で越冬。 1795年1月、レザノフ、シェリホフの娘アンナと結婚。 1795/04/14、エウストラト・イヴァノヴィチ・デラロフ(シェレホフ・ゴリコフ商会の支配人)、津太夫らとウナラスカ島を出帆。 1795/05/08、サンパメウ島に着く。 1795/05/10ごろ、サンパメウ島出発。アミセイツカ島に着く。 1795/05/12ごろ、アミセイツカ島出発。 1795/07/09、オホーツクに着船(15名) 3班に分けられる。 1班:儀兵衛、善六、辰蔵 2班:佐平、銀三郎、左太夫、太十郎、茂次郎 3班:津太夫、民之助、清蔵、八三郎、市五郎、巳之助、吉郎次 1795/07、ヴァシリー・コレニオビチ・ズヴェズドチョトフ(日本史料ではワシレイ・コレニオブ・ズエズン・ケレトフセ)、40名のウルップ島植民団を率いてオホーツクを出発。若宮丸漂流民の1人がこの一団に故国への手紙を託する。 1795/08/29、第1班、オホーツク発。 1796/02/04、第1班、イルクーツク着。 寛政8(1796)年、ズヴェズドチョトフ、若宮丸漂流民の手紙を厚岸の乙名(長老)イトコイの手を経て、厚岸詰松前藩役人に届けるが、受け取り拒否され、手紙はズヴェズドチョトフの手に戻る。 1796/02/10、エゴル・イバノヴィチ・トゥゴロコフ、若宮丸1班の3名を住まわせる。 1796/3月、善六、辰蔵、イルクーツクで受洗。ロシア名は、善六:ピョートル・ステファノヴィチ・キセリョフ、辰蔵:アンドレイ・アレクサンドロヴィチ・コンドラトフ。受洗しなかった儀兵衛は、神昌丸庄蔵(H1783a)と同居する。 1796/05、第2班、オホーツク発。 1796/07/14、第3班、オホーツク発。市五郎、途中、病気のためヤクーツクに残留。 1796/08、善六、庄蔵に代わり日本語学校教師補となり、神昌丸(H1783a)新蔵を補助する。 1796/08/06、エカテリナ2世、ロシア参議院の答申に基づき、東部シベリア総督イヴァン・ヴァシェリエヴィチ・セリフォントフに対し、若宮丸漂流民を日本に送還して通商関係を拓くよう命令を下す。 1796/11/02、市五郎、ヤクーツクで死亡。 1796/11、第2班:イルクーツク着。 1796/11/17、エカテリナ2世、没。 1797/01、第3班、イルクーツク着。 1797年初め、民之助・八三郎、善六に勧められイルクーツクで受洗。ロシア名は、民之助:イヴァン・メイトロヴィチ・キセリョフ(故郷での戒名心月浄照信士)、八三郎:セミョン・ゲレゴロヴィチ・キセリョフ。 寛政10(1798)年、近藤重蔵、厚岸で若宮丸漂流民の手紙の件を耳にする。 1799/03/11、吉郎次、イルクーツクで死亡。享年73歳。同地墓石には阿部屋吉郎祐作と彫られた。 1799/09/27、レザノフ、露米会社の総支配人に就任。役員会をイルクーツクからペテルブルグに移すとともに、皇帝はじめ政府高官を大株主に迎えて、国家保護のもと強力な活動に入る。 1802/01/26(享和元年12月23日)、若宮丸漂流民の手紙が、蝦夷地御用掛の手から幕府当局に届けられる。 1802/1月、クルーゼンシュテルン(海軍大尉)、海軍大臣ニコライ・セミョノヴィチ・モルドヴィノフに対して、バルト海から北太平洋地域に必要な物資を輸送し、帰路広東で毛皮を売りさばき、東南アジアで賞品を買い入れて帰港するという意見書を提出する。 1803/08/10、レザノフ、アレクサンドル1世から露米会社による世界周航船派遣の許可を得る。 1803/04/28、アレクサンドル・メルケリとペテルブルグに向けイルクーツク発(13名)。 1803/04/30、左太夫・清蔵、ペテルブルグへの旅中で発病落伍。イルクーツクへ送り返される。故郷での戒名廓心浄空信士。 1803/05、銀三郎、ペテルブルグへの旅中ベリマで発病落伍。 1803/06/15ごろ、ペテルブルグに到着(10名)。 1803/07/04、アレクサンドル1世に謁見。善六・辰蔵・茂次郎・民之助・八三郎・巳之助の6名はロシア残留を希望する。 1803/07、巳之助、茂次郎、ペテルブルグで受洗。ロシア名は巳之助:ミハイル・ジェラロフ?、茂次郎:ザハル・ブルダコフ? 1803/08/03、津太夫・左平・儀兵衛・太十郎の4名、レザノフとバルト海のクロンシュタット港をナデジダ号で出航。艦長、クルーゼンシュテルン。僚艦ネヴァ号。残留希望の善六も通訳としてナデジダ号に乗り組む。 1804/06、ハワイのオアフ島に到着。 1804/07/15、ペテロパウロフスクに到着。善六、レザノフに下船を命じられる 1804/08/30、出航準備が整う。カムチャツカ大隊のフョードロフ大尉とコシェレフ中尉(カムチャツカ長官コシェレフの弟)の同行を決める。 1804/09/01、レザノフ、艦に乗り込む。 1804/09/02、パヴェル・コシェレフの来訪を受ける。 1804/09/07、抜錨。無風となりアワチャ湾を出られず。 1804/09/08、ペテロパウロフスクを出航(アワチャ湾から外洋に出る)。 1804/10/04、N45°46´ 経度203°52 1804/09/27、N40°46 経度209° 1804/09/28、N32°5 経度226°16 日本の海岸が見える(大隈半島沖) 1804/10/01、時化に遭う。 1804/10/02、N31°17 経度227°6 1804/10/03、N31°42 経度227°21 大隈半島と桜島を見る。 1804/10/04、N31°42.63 経度227°19 1804/10/05、N31°9.31 経度229°13 種子島を通過。 1804/10/06、N31°48’ 経度229°39 1804/10/07、N32°21.45 経度230°28 五島列島を通過。九州に近づく。 1804、善六(在ペテロパウロフスク)、慶祥丸漂流民と会う。継右衛門文内と岩松を止宿させる。 1804/10/09、長崎港伊王崎に到着。行方覚左衛門、菊沢左兵衛、ナデジダ号に乗船。ラングスドルフ(博物学者)、ナデジダ号に同乗。通訳をする。ヘンドリック・ドゥーフ|Hendrik Doeff、ムスケチール、ナデジダ号に乗船。 1804/10/11(文化元年9月8日)、レザノフ、国書を提出。 1804/10/13(文化元年9月10日)、石橋助左衛門、レザノフの国書を翻訳する。 1804/11/03(文化元年10月2日)、ロシア国書の写しとその訳文を幕府が受け取る。 文化元年11月(1804)、大学頭・林述斎と奥儒者・柴野栗山が、ロシア使節への対応策を幕府に上申。 文化元年12月(1804)、幕府、ロシア人の参府、国書の受け取りはもちろん、通交通商のことは許しがたいとし、これをロシア側が承知しない限り漂流民を受け取らないという方針を固め、目付遠山金四郎景晋を宣諭使として長崎に派遣することとする。 1805/01/17(文化元年12月17日)、太十郎、口中に刃物を突っ込み自殺を図る。 1805/02/10(文化2年1月11日)、ロシア人が長崎で小さな紙気球をこしらえ飛ばし人家の屋根に落ちる。 1805/03/30(文化2年2月30日)、遠山金四郎景晋、長崎着。 1805/04/05(文化2年3月6日)、遠山金四郎景晋、レザノフと会見。 1805/04/06(文化2年3月7日)、遠山金四郎景晋、レザノフと会見。「教諭書」を示す。(鎖国の原則をはじめて明確にした) 1805/04/08(文化2年3月9日)、レザノフ、長崎奉行所に別れの挨拶に訪れ、日本側から漂流民の受け取りの申し出を受ける。 1805/04/09(文化2年3月10日)、増田藤四郎・上川伝右衛門・菊沢左兵衛、若宮丸漂流民4名を受け取る。 1805/04/18(文化2年3月19日)、レザノフ、長崎を去る。 1805/04/28(文化2年3月29日)、若宮丸漂流民の供述書「漂流次第口書」できる。 文化2年4月(1805)、若宮丸漂流民の供述書「ロシア国事情口書」できる。 1805/06/05(文化2年5月8日)、遠山金四郎景晋、長崎から帰府。 1805/06/06、レザノフ、ペテロパウロフスクに帰着。 1805/06/17(文化2年5月20日)、石川忠房・中川五郎次、若宮丸漂流民についての評議を命じられる。 1805/06/26、レザノフ、マリア・マグダリナ号でアメリカ植民地視察に向かい、ペテロパウロフスクを出発。 1805/07/02(文化2年6月6日)、石川忠房・中川五郎次、若宮丸漂流民の領主引渡しを答申。 1805/07/04、クルーゼンシュテルン、樺太探検のためペテロパウロフスクを出航。 1805/08/29、クルーゼンシュテルン、樺太探検から帰る。 文化2年閏8月(1805)、若宮丸漂流民4名が返還されたことが仙台藩に通知される。 1805/12/10(文化2年10月20日)、仙台藩武頭平井林太夫、仙台藩徒目付窪田栄助、若宮丸漂流民4名を長崎で受け取る。 1806/02/06(文化2年12月18日)、江戸に到着。 1806/02/08(文化2年12月20日)、大崎の藩邸で取調べを受ける。 1806/02/13(文化2年12月25日)、大槻玄沢の審問を受ける(~文化3年2月中旬)。 文化3年2月下旬(1806)、江戸出発、仙台藩に帰る。津太夫は、この後消息不明。 1806/05/18(文化3年4月1日)、太十郎、病没。戒名本田寿良信士。享年63歳。 1806/10/14(文化3年9月3日)、儀兵衛、死亡。戒名長流来見信士。享年45歳。 文化4年初夏(1807)、大槻玄沢、「環海異聞」を著す。 文化9年10月(1812)、善六、イルクーツクで歓喜丸(H1810a)久蔵を泊める。 1813/02、善六、歓喜丸漂流民(H1810a)とイルクーツクを出発。 1813/08/23、ピョートル・イヴァノヴィチ・リコルド、ゴロウニンの開放交渉のためジャナ号でオホーツクを出帆。善六と歓喜丸漂流民(H1810a)久蔵が通訳として同行。 1813/10/01(文化10年9月8日)、エドモ(室蘭)入港。 1813/10/09(文化10年9月16日)、善六箱館入港。 1813/10/22(文化10年9月29日)、ゴロウニン開放され、箱館を去る。 1814/09/12(文化11年7月29日)、津太夫、郷里(陸奥国宮城郡浦戸村)で死亡ともいう。 1815年、石巻の善六。ゴロウニン開放時の通訳の功として日本語学校正教師に任命される。 1816/08/07、イルクーツク日本語学校、経費不足のために閉鎖。 文化13(1816)年ごろ、善六、死亡。 1829/05/14(文政12年4月12日)、左平、死亡。戒名観林了念信士。享年67歳。 1844/04/11、クルーゼンシュテルン、日本への通商使節の派遣を提案するが、認可されず。 1846年、イヴァン・フョドロヴィチ・クルーゼンシュテルン、没。 参考文献 荒川秀俊, 1995. 異国漂流物語. 社会思想社. 木崎良平, 1991. 漂流民とロシア. 中央公論社. レザーノフ(大島幹雄訳), 2000. 日本滞在日記. 岩波書店